2009年

ーー−11/3−ーー 蜂の巣の掟

 工房の事務所は、プレハブの二階にある。その下はガレージになっていて、家内はそこから車に乗ってパート先へ通勤する。最近になって、その車の出入り口の地面に、大きなウジ虫のようなものが出現するようになった。

 アスファルトの道路の上に、ポツポツと転がっている。中には、車に踏まれてペチャンコになっているものもある。こんな事は今までになかった。ちょっと不気味だった。

 ひょっとして、近くに動物の死骸でもあるのかも知れない。ざっと見たところ、それらしきものは無いけれど、草むらの中に横たわっていることもありうる。そんなものは見たくもないから、草を分けて探すことはしない。そのうち季節が移って草が枯れ落ちれば、真相が判明するだろう。その頃には白骨化しているだろうか。などと考えていた。

 そんなある日、ふと見上げたら、二階の軒下に直径40センチほどの球体を発見した。蜂の巣である。球の表面には蜂がうようよしており、飛び立つもの、舞い戻るものが、入れ替わり忙しそうに動いていた。

 早速ネットで調べたら、スズメバチの巣のようだった。スズメバチと言えば、大型の蜂である。巣に群がっている蜂は、そんなに大きくないように見えた。距離があるので小さく見えたのかも知れない。ともあれ、巣の形、表面の模様からして、スズメバチの巣であることは間違いないようであった。

 さて、この巣をどうしたら良いものか。スズメバチの生態について、さらにネットで調べてみた。そうしたら、驚くべきことが書いてあった。秋になって働き蜂の数が少なくなり、巣の中が餌不足になると、弱った幼虫は巣から引き抜かれて、外に捨てられてしまうというのである。道路の上に転がっていた幼虫は、その犠牲になったものだったのだ。

 餌不足に陥ると、働き蜂が幼虫を食べてしまうこともある、とも書いてあった。それは理解できない事ではない。共食いは、虫の世界ではよく見られる習性だと思う。しかし、弱って、育つ望みが無くなった幼虫を捨ててしまうというのは、ちょっと理解に苦しむ。巣の中で、静かに死なせてやるわけには行かないのだろうか。それとも、餌をやらずに死なせてしまうくらいなら、ひと思いに殺してしまった方が良いというのだろうか。まさか、貧しかった時代の人間社会で行われた、悲惨な出来事ではあるまいし。

 さて、この巣をどうするかという問題だが、専門の業者を頼んで、処分することが頭に浮かんだ。しかし、調べてみると、離れた場所にある巣は、こちらから攻撃しない限り、無害だと書いてあった。また、冬になると巣は空になり、それが再び使われる事はないそうである。それなら、慌ててこの巣を処分する必要もなかろう。その一方で、蜂の巣が家にできると縁起が良いという話も聞いた。それならなおさら、このままにしておくのが良いだろう。



ーー−11/10−ーー 展示会に向けて


 
今週の木曜日から4日間、展示会を行う。場所は千葉県習志野市の茜浜ホール。この会場での展示会は、昨年12月に続いて2度目である。

 茜浜ホールは、一般に開放された多目的ホールである。普段は市民のダンス・サークルの練習や、ピアノ教室の発表会などに使われることが多いらしい。設備は十分に行き届いていて、申しぶんない施設であるが、元々展示会場として作られているわけではないから、家具の展示会を行う場としては多少の難もある。その施設で展示会を行うのは、特別の理由がある。

 このホールの隣には、私が以前勤めていた会社がある。実はこのホールは、その会社の子会社が運営している。私は大学を卒業してから12年間勤めたが、その当時の同僚、先輩、後輩が、まだ社内にはたくさんいる。その人たちの来場を見込んで、このホールで展示会を行うというのが、当初の目論見であった。

 展示会をやるなら、なるべく多くの来場者が見込める場所でやるというのがセオリーである。しかも、作者と何らかの接点のあるお客様に来てもらえることが望ましい。いくら沢山の来場者があっても、不特定多数の人だけだと、なかなか売り上げや注文につながらない。展示会に来た見ず知らずの人が、次々と家具を買うなどということは、まずありえないことである。それは、この仕事に携わっている者なら、誰でも感じている事だろう。

 昨年は、とにかく来場者が多かった。20年前に退社した男を、いまだに覚えてくれていて、会場に足を運んでくれた人が大勢いた。まるで同窓会のようであった。それだけでも、私にとって嬉しい事であった。

 ビジネスの面でも、それなりの成果があった。一般的には、一つの場所で回数を重ねないと成果が出ないものだが、初回である程度うまく展開できたのは、やはり昔馴染みのコネによるものが大きかった。

 今年は2回目であるから、さらなる成果を期待したいところである。早い時点で会場を押さえられたので、今回は週末にかけての開催である。会社の人はもちろんだが、それ以外の方も、多数ご来場いただきたい。



ーー−11/17−ーー 茜浜展示会報告


 茜浜ホールでの展示会が終了した。ひと言で述べるなら、大成功の展示会であった。出品した品物の数で、過去最大規模の展示となったが、動いた金額も最高となった。これほどの成果は、全く予想外であった。

 何がどのように作用して、このように大きな成果に結びついたのか、思い当たる事はいろいろある。それらがお互いに絡まり合い、うまく結びついて、効果を上げたのだろう。それは、単純なことではない。簡単にこのような成果が得られるなら、木工家具製作はバラ色の人生ということになる。現実はそのようなものではない。

 あえて指摘するなら、来場者の質の高さが大きかったと思う。品物の品質を的確に判断し、それを購入する決断力、そして経済力を兼ね備えた人というのは、世の中にそう大きな割合でいるものではない。今回の展示会は、そのような方々に恵まれた。そして、それに応えるだけの力が品物にあった、と言って頂けたら、制作者として最高の幸せである。

 三日目の午後は、トークショーを開催した。朝から暴風雨で、京葉線が一時止まるなどのトラブルがあり、来場者が集まるかどうか心配されたが、30名ほどを迎えて行うことができた。長年に渡り、私の作品を使って下さっている方が、今回の話を聞いて初めて奥の深さを知ったと述べられた。「秘するが華」という言葉もあるが、仕事にまつわることを丁寧に紹介することも、場合によっては必要である。それも制作者の仕事の一部であると思われた。

 会期が終了した翌日、展示品を片づけて軽トラに積んだ。全てが終わった後、主催メンバーで立ち話をし、来年も同じ時期にこの場所で展示会を行うことが決まった。今回の成果を、上り調子の前兆ととらえれば、次回に向けての準備にも力が入る。大きな張り合いを感じながら、制作活動に励むことになるだろう。

 昨年に続き今回も、多くの友人、知人に支えられて、展示会を行うことができた。この場で改めて、その方々に心からのお礼を申し上げたい。



ーー−11/24−ーー 都会の変貌


 先日の千葉での展示会、三日目の午後にトークショーをやった。会が終わると、年配の男性が近付いてきて、立ち話となった。その方は、私が学生時代に在席した山岳部のOBだと自己紹介された。卒業年から計算すると、私より14年上の先輩だった。初対面だが、お名前はOB会の連絡網で拝見したことがあったように思い出した。

 学生時代のサークルの人間関係というのは面白いもので、初対面の者どうしでも、先輩後輩の関係が知れればすぐにうちとけて、「○○先輩」、「△△君」という感じになる。

 先輩は、一つ頼みがあると切り出した。自宅で昔から使っているテーブルが、具合が悪くなったので直して欲しいとのことだった。とりあえず、展示会が終わったら、帰路立ち寄って、モノを見てくれないかと言われた。ちなみにご自宅は東京都文京区にある。

 一般論で言えば、このようなお話には難色を示してもやむをえまい。展示会が終わったら、さっさと家に帰りたいというのが正直な心境である。ましてや、展示品を満載した軽トラで、慣れない都心を走るのは、元気が良いときでも不安がある。しかし、山岳部の先輩のご依頼である。辞退するなどという選択肢はもとより無い。

 月曜日の午前中、展示会の片付けをして、トラックに荷を積んだ。そして、1時前に会場を後にした。平日にもかかわらず、首都高はスムーズに通過できた。お宅に着いたのは2時過ぎだったか。空襲でも焼けずに残ったという住宅街は、すごく道が狭かった。お宅は、93年前に建てられたという、古い住宅だった。お部屋の中のたたずまいは、小津安二郎の映画を思い出させた。

 テーブルはずっと以前に、お父上が南方から持ち帰った板を甲板にし、それに当時の大工が脚を付けたものだとの説明だった。私は南洋材に詳しくないので、材種を言い当てることはできなかった。甲板はかなり反って歪んでいた。脚は、ホゾが抜けかかっていて、グラグラしていた。甲板の表面を削り直して綺麗にし、脚は新しく作り直すということで、改造を承った。

 お宅を出て、山手通りを中央高速の初台インターへ向かった。山手通りは昔の呼び名で言うと第六環状線である。この通りが突っ切る東中野界隈で、私は小学生時代を過ごした。ちなみに小学校は、山手通りに面した塔ノ山小学校である(マルタケ2008年2月「戦車と先生」参照)。その懐かしい場所を、およそ44年ぶりに通った。車で通過したのだから、ほんの短い時間である。ゆっくりと景色を眺めることはできなかった。しかし、街並みの変貌ぶりには驚かされた。

 東中野駅は、全く昔日の面影を残していなかった。通りに面した商店や住宅も、昔の姿を一切残さずに、大きなビルに変わっていた。友達のK君の家は、通りに面した木造二階建てで、庭に樹が茂っていて、よく缶けりをして遊んだものだったが、跡形も無く消えていた。小学校は元の場所に有るはずだが、通り過ぎる車窓からは、それと確認できなかった。何もかもが変わってしまい、別の場所にいるようだった。

 唯一、氷川神社の境内だけが、高いビルの合間に沈むようにして、昔の姿を留めていた。






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